黒川直子さん(前編)|王朝人に愛された伝統の手刺繍、絽刺し。ひと刺しごとに美しい文様が浮かび上がり、飽きることがありません。

黒川直子さん(前編)|王朝人に愛された伝統の手刺繍、絽刺し。ひと刺しごとに美しい文様が浮かび上がり、飽きることがありません。

絽刺し(ろざし)は、飛鳥奈良時代に中国から伝わった伝統刺繍。歴史ある絽刺しの魅力を身近に楽しんでほしいという思いが1冊の本になりました。それが『高貴な和の伝統刺繍 やさしい絽ざしのことはじめ』です。著者の黒川直子さんに絽刺しの魅力や著書制作時のエピソードについてお話を伺いました。前編後編にわたってお届けします。

撮影:奥 陽子  取材・文:庄司靖子

平安時代には公家の間で流行したといわれている伝統刺繍、絽刺し。つややかな絹糸で織りなされた意匠は、雅で美しく、気品に満ち溢れています。

 

静かな存在感を放つ絽刺し

著書の黒川直子さんのご自宅にお邪魔してまず目に飛び込んできたのは、色とりどりの絹糸で表現された幾何学模様の絽刺し。額装された絽刺しはそれだけで存在感があり、白を基調としたインテリアにとてもよく映えます。リビングには著書掲載作品をはじめ、さまざまな絽刺しの小物が飾られ、まるで美術館のよう。


▲数々の絽刺し作品が飾られたリビングの出窓コーナー。作品と植物の見事なコラボレーションは、絽刺し作家でありフラワーデザイナーでもある黒川さんならではのあしらい。


▲出窓の右側に飾られていたのは、蝶を縫いつけたバッグと絽刺しのブローチ。


▲正倉院の宝物にあらわされた、天平文様の鹿をモチーフにした作品。著書では木製のフレームだったが、インテリアに合わせてゴールドのフレームに。


▲人気の模様“縞”の絽刺しとフランスのレースを組み合わせたネックレス。レースにはフランスのビーズショップで見つけたクリスタルをあしらって。

このリビングは、黒川さんが作品を制作するアトリエでもあります。光がたくさん取り込める明るい空間に配した大きなテーブルで、日々、作品を生み出しているのです。


▲著者の黒川直子さん。「絽刺しは貴族の手すさびとして楽しまれたそうです。刺していると夢中になって、飽きることがありません」

 

絽刺しの特徴は「同じ方向に垂直に刺し埋める」こと

絽刺しは、絽刺し専用の絽布に、艶やかな絹糸を刺していく刺繍ですが、一番の特徴は同じ方向に垂直に刺し埋めるということ。


▲リビングに飾られていたのは、著書で紹介された絽刺しをまとめて額装したもの。「銀座で絽刺し展を開催したときに額装しました」

「絽の目を数えて常に同じ方向に糸を刺すだけなので、実は簡単なんですよ」と黒川さん。著書の刺し方のページを見ると、確かに基本を理解すれば初めてでもできそうな気がしてきます。特に“縞(しま)”や“鱗(うろこ)”などの模様は、糸を刺す方向が同じだということが理解でき、「絽刺しの入門としても取り組みやすい」ということなので早速試してみたくなるほど。一方、“流れ”という模様では緩やかな曲線が表現されており、それが同じ方向に糸を刺しているだけでできていることに驚きます。


▲写真中央の山を並べたような模様は“山路(やまじ)”といい、“縞”の一種。縦方向に糸を刺していることがわかる。

もうひとつの絽刺しの特徴は、絽布を絹糸で刺し埋めて地を残さないということ。とても大変そうです。「根気よく刺せば必ず仕上がりますよ」。そんな黒川さんの言葉に俄然、やる気が出てきました。

 

絹糸のつややかな美しさのとりこに

黒川さんが絽刺しに魅了された一番の理由は、絹糸のつややかな美しさです。

「同じような赤系でも紅色、蘇芳(すおう)色、韓紅(からくれない)、緋色、茜色など、何種類もの色があり、見ているだけでうっとりします。また、糸を刺したときの立体感も魅力です」


▲光沢のある絹糸がグラデーションに並ぶ姿はそのままで美しい。


▲糸によって番号だけついているものと、和の色名がついているものがあるそう。「色を見れば番号がわかります」

絽刺しの土台布となるのは、「絽(ろ)」。生絹(せいけん)と呼ばれる絹の原糸を織った布です。張りのある質感が特徴で、木製の枠に貼って図案を描き、刺していきます。


▲絽刺し用に織られた「絽」は、約63cm幅で売られている。


▲絽を木枠に貼ったものと刺している途中のもの。黒川さんは並行して何種類かの作品をつくることが多いそう。

 

幾何学模様だけでなく、絵画のような作品も

常に同じ方向に刺していく技法でありながら、波のような曲線が表現できるのが絽刺しのおもしろいところ。黒川さんの作品を見て驚いたのは、幾何学模様だけでなく、まるで絵画のような作品がたくさんあることです。


▲制作途中の絽刺し。「これは額にして飾るか帯にするか、考えているところです」

「絽の目を数えながら刺し埋めていくことによって伝統模様をつくることもできますし、好きに描いた絵を表現することもできます。そこも絽刺しの魅力のひとつです」


▲絽の目から目に糸を渡し、針を垂直に刺していく。同じ方向に刺しさえすれば、花や背景などを刺す順番は自由。


▲黒川さん愛用の道具。針とハサミ、定規など、特別なものはない。針刺しはキャンドルスタンドをアレンジしたもの。

 

刺し方を指南する教本は、初の試み

伝統刺繍の絽刺しは1200年以上の歴史があるといわれていますが、現在の日本ではあまり浸透していません。そんななか誕生した『高貴な和の伝統刺繍 やさしい絽刺しのことはじめ』は、刺し方を指南する教本としては初めての本といってもいいかもしれません。


▲ご自宅の玄関に著書と一緒に額装された絽刺しをディスプレイ。著書には掲載されていない配色で刺した作品も並んでいる。

「絽刺しは貴族や大奥で流行していたということもあり、今でも高級なイメージがあります。でも、こんなにきれいで楽しい手工芸を一部の人たちだけのものにするのはもったいないと思うんです。絽刺しをもっと身近に楽しんでもらいたい、とずっと思っていました。今回、本にまとめるお話をいただいて、とても感謝しています」

著書には、高貴なイメージの絽刺しを身近に楽しんでもらえるよう、刺し方のハウツーはもちろん、アイテム選びにも工夫を凝らしたそう。


▲黒川さんのノートは、色やデザインなど、アイディアの宝庫。編集者からのオーダーも貼り付けている。

「絽刺しという刺繍を知らなかった方がこの本を手に取ってくださったとき、いかに楽しくわかりやすいと思っていただけるか、そこを一番に考えながらつくりました。歴史ある絽刺しを現代に合うものにするため、つけ襟やイヤリング、ハットリボンなどの小物も提案しています。本を通して絽刺しの時間を楽しんでいただければと思います」

 

伝統模様の解説で、いっそう愛着がわくものに

絽刺しをわかりやすいものにするために腐心した以外に、もうひとつ力を注いだのが、伝統模様の持つ意味について解説を載せたこと。素敵だな、と思う模様にそれぞれ意味があることを知ると、よりその模様への愛着がわいてくるものです。

「企画の段階で、編集の方から伝統模様の意味も入れたいというお話をいただきました。もともと模様が大好きで本もたくさん持っていますが、今回は本の制作のために色々考え、調べました。そのお陰で新たに知ったこともあり、私自身とても勉強になりました。モロカン柄、ペルシャ織、ダマスク織、唐草模様、日本の伝統文様はもちろん、世界は文様で繋がっている気がします」


▲黒川さんが考案した図案の数々。着色された模様は著書に掲載されたものと同じスタイルで、ワークショップでも使用している。

日本に昔から伝わる模様には吉祥や魔よけなどの意味が込められており、それらを絽刺しで表現できたらどんなに素敵でしょう。その意味に合わせてお守りに仕立てたり、アクセサリーをつくったりしたら、遠い存在だった絽刺しが身近なものになるに違いありません。

後編では、黒川さんの活動や絽刺しの楽しみ方についてお話を伺います。

 

 

おすすめコラム