vol.20

絶妙なバランス

写真・文/トニー・ウー 翻訳/嶋田 香

写真家トニー・ウーさんの「トニーと海の物語」第20回目です!1枚の写真から人が受ける印象は実に様々だと思っています。特にこれまでこの連載のトニーさんの写される写真の一瞬一瞬には常にドキドキとさせられてきました!写真の向こう側にあるもの…トニーさんは語りかけます。オープニングの1枚はホッキョクグマの親子の写真です。今回もトニーさんの写真と文章から何か感じて頂けましたらうれしいです!

ホッキョクグマ(Ursus maritimus)の赤ちゃんとお母さんです。

 

 

赤ちゃんグマは好奇心のかたまり。でも用心深いので、お母さんの後ろの安全地帯に隠れて、下からそっと顔をのぞかせています。この写真を初めて見た人の感想は、「うわぁ、なんてかわいいんだろう!」といったところでしょうか。

 

僕の書いたこれまでのコラムを読んでくれた人なら、この写真を僕が紹介したのにはわけがあると気づいたかもしれません。かわいい動物を見てもらうだけじゃなくて、もっと大切だと思う理由が別にあるんですよ。

 

前回(第19回)のコラムの中で僕は、動物の姿を見れば、その動物の暮らしぶりについて様々なことがわかる、というお話をしました。

 

このホッキョクグマの親子を見て、何かわかりますか?

 

赤ちゃんグマをアップで撮った次の写真のほうが、わかりやすいかもしれません。

 

 

体にびっしり毛が生えているということは、このクマが住んでいるのは寒いところです。歯の形からすると、どうやら肉食動物らしい。赤ちゃんなのにもかかわらず、体つきががっしりしていて足が大きいことから、力の強いたくましい動物だということもわかります。ホッキョクグマは、この立派な足を大きなオールのように使って、上手に泳ぐんですよ。

 

フサフサした毛並みからは、もうひとつ別のことがわかります。それは、このクマが人間と同じ哺乳類だということ。哺乳類は恒温動物といって、体温が常に一定に保たれている動物です。例えば人間なら、たいていの人の体温はおよそ36.8℃ですが、これは偶然にもホッキョクグマとちょうど同じ。

 

それほど高い体温を保つには、たくさんのエネルギーが必要になります。寒いところに住んでいるなら、なおさらです。

 

つまりホッキョクグマは、体温を保つためにも、それからもちろん成長するためにも、大量のカロリーをとらなければいけないんです。

 

だからこそホッキョクグマは、アゴヒゲアザラシ(Erignathus barbatus)に目がないです。

 

 

この丸々と太ったアザラシ、僕やあなたの目には、ひげの先がクルンと巻いた、おかしな顔のかわいらしいぬいぐるみ、って感じに見えますよね。でも、ホッキョクグマにとってアゴヒゲアザラシは食べ物。重要なカロリー源です。

 

アゴヒゲアザラシは哺乳類ですが、見てわかるように、ホッキョクグマや人間とは見た目がずいぶん違っています。もっともはっきりしている違いは、太っていること。健康なアザラシは太っちょです。

 

前回のコラムでお話ししたように、形態は本質的に機能に従うので、アザラシが太っていることにもちゃんとした理由があります。

 

水は空気よりもはるかに速く(空気のおよそ25倍の速さで)熱を吸収します。ですから、海に暮らすアザラシは、断熱性の高い脂肪を体にたくさん蓄えます。体に脂肪を蓄えると、その分、体の体積に対する表面積の比率が低くなる。アザラシはそのおかげで、獲物を探して北極の冷たい海にもぐったときも、体温を保ちやすいのです。わかりやすく言えば、アザラシは太っているおかげで凍えずに済んでいるというわけ。

 


ホッキョクグマは、アザラシが上の写真のようにして眠っているのを見つけると、こっそり近づこうとします。泳いで近づいていき、アザラシのすぐそばまで行ったら、水中からいきなり飛び出してガバッとつかまえるんです。

 

実を言うと、1枚目の写真の親子に僕が出会ったときも、その直前に、この狩りが行われていました。この親子を見つけたとき、母グマはつかまえた獲物をゆっくりと味わっているところで、僕は友人らと一緒にその様子を観察しました。

 

さて、ここまでで、ホッキョクグマとアゴヒゲアザラシについて、それから2種の関係について、ある程度のことがわかってもらえたと思います。そこで、ひとつ問題を出させて下さい。

 

1枚目の赤ちゃんグマとお母さんの写真を、もう一度見て下さい。この写真に欠けているものがあるとしたら、それは何だと思いますか?

 

答えは、もう1頭の赤ちゃんグマです。

 

ホッキョクグマは通常、子どもを2頭産みます。1頭しか産まないこともありますし、まれに3頭以上ということもありますが、普通は2頭です。

 

僕はこの親子との出会いを振り返るとき、つい考えてしまうんです。この子グマにはきょうだいがいたんじゃないだろうか、いたとして、その子は死んでしまったんだろうか。

 

この子グマにきょうだいがいたかどうかを確かめる方法はありません。けれど、北極の環境がすごい勢いで変わってきたことと、変わりつづけていることははっきりとわかっています。

 

大きな変化としては、例えば、氷の量が年々減っているように思いますし、春に氷の融ける時期も、年々早くなっている気がします。

 

「だからなに?」って、思いますか? 「暖かいなら、そのほうがいいじゃない」って?

 

そういう考え方もあるかもしれません。でも、ちょっと立ち止まって、どんな影響があるかを広い視点で考えてみて下さい。

 

ホッキョクグマもアゴヒゲアザラシも(それから、北極に暮らすそれ以外のたくさんの動物たちも)、一年の大半を氷に囲まれた寒い環境の中で生きていけるように、非常に長い年月をかけて共に進化してきました。

 

この動物たちが今のような姿になり、今のような行動をとるようになったのは、寒さと氷に対応するためです。彼らはそういった環境の中でこそ、元気に暮らしていけるのです。

 

もしも北極の氷がなくなれば、何から何まですべてが今とは変わってしまいます。

 

アゴヒゲアザラシは、上の写真のように氷の上で眠ることはできなくなるでしょう。もちろん水中で休むことはできますが、常に水の中にいれば、氷の上で眠れるときに比べて早く体が冷えてしまいます。そうすれば、疲れやすくなったり、やせたり、弱ったりしてしまうでしょう。また、水中ではきちんと休むことも難しいので、寝不足によって僕やあなたが受けるのと同じダメージを受けるでしょう。

 

ホッキョクグマにとっても、氷はなくてはならないものです。泳ぎが上手とはいっても、彼らにとっては歩く方がはるかに楽ですから。ホッキョクグマは主に氷上で活動し、アゴヒゲアザラシのような獲物にしのび寄るときには海を泳いで近づきます。もしも北極海の氷が融けてしまい活動するための足場がなくなれば、そこに住むことも獲物を狩ることもできなくなるでしょう。そうなれば、陸地に移動しなければなりませんが、陸地では水中を泳いで獲物にしのび寄ることはできません。暮らし方をそれまでとは変えねばならず、もとの暮らしには決して戻れなくなるでしょう。

 

今回のコラムの1枚目の写真を見るとき、僕の目に映るのは、かわいい赤ちゃんグマとそのお母さんです。

 

それでも僕は、そこにいない子のことが気にかかってしまいます。赤ちゃんはもう1頭いたんじゃないのか、その子は、環境が変わったことでお母さんが餌をとりにくくなり、2頭の赤ちゃんを育てるのが難しくなったせいで死んでしまったんじゃないのか、って。なにしろお母さん自身も、少しやせてしまっていましたからね。

 

第5回のコラム「水面下のシンフォニー」のテーマを思い出して下さい。海の中のすべては互いに関わりあっているとお話ししましたね。あらゆるものが互いに影響を及ぼし合い、あらゆるものが互いに依存し合っています。

 

ホッキョクグマと、アゴヒゲアザラシと、氷。これらは三者がそろうことで、初めて自然の営みが成り立っています。このうちのひとつ、例えば氷を取りのぞけば、三者の間で保たれている絶妙なバランスは、くずれてしまうでしょう。

 

大切なものごとは写真に写るとはかぎりません。ときには写っていないものにこそ、思いをめぐらせてじっくりと考えるだけの価値があるのです。

 

TONY WU(写真・文)

トニー・ウー

もともと視覚芸術を愛し、海の世界にも強く惹かれていたことから、1995年以降はその両方を満たせる水中写真家の仕事に没頭する。以来、世界の名だたる賞を次々と受賞。とりわけ大型のクジラに関する写真と記事が人気で、定評がある。多くの人に海の美しさを知ってもらい、同時にその保護を訴えることが、写真と記事の主眼になっている。日本ではフォトジャーナリズム月刊誌『DAYS JAPAN』(デイズ ジャパン)の2018年2月号に、マッコウクジラの写真と記事が掲載された。英語や日本語による講演などもたびたび行なっている。

嶋田 香(しまだ かおり)

東京都出身。東京農工大学農学部卒業、同大学院修士課程修了。英日翻訳者。主にノンフィクション書籍の翻訳を行う。訳書は『RARE ナショナルジオグラフィックの絶滅危惧種写真集』(ジョエル・サートレイ著/スペースシャワーネットワーク)、『知られざる動物の世界9 地上を走る鳥のなかま』(ロブ・ヒューム著/朝倉書店)、『動物言語の秘密』(ジャニン・ベニュス著/西村書店)、『野生どうぶつを救え! 本当にあった涙の物語』シリーズ(KADOKAWA)など。
翻訳協力:株式会社トランネット